トンボ鉛筆100年史 page 39/98

トンボ鉛筆100年史

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トンボ鉛筆100年史

MONOディスプレイう節目になる年を迎え、その記念となる最高級鉛筆「MONO」の完成間近の春であった。父、春之助の遺志を受け継いだ八郎は、社長就任からわずか6年で世を去ったのである。しかし、たった6年のうちに、トンボ鉛筆を鉛筆専業メーカーから総合筆記具メーカー、さらにはステーショナリー・メーカーへと育てあげたその功績、存在はあまりにも大きかった。4月7日、青山斎場で営まれた葬儀では、早川電機工業社長の早川徳次氏が葬儀委員長を務め、大勢の参列者が八郎との別れを惜しんだ。浩平専務、第3代社長に就任1963年4月、八郎に代わって社長に就任した浩平は、1921(大正10)年2月10日に春之助の次男として生まれた。法政大学専門部商科に在籍のころ家業を担う志を固めている。入社して最初の仕事は、倉庫での荷造りだった。春之助、とわの厳しい姿勢がうかがわれる。その後、営業畑で実績をあげ、販売網を点から線へ、線から面へ発展させた。戦時下の1943年、マレーシアのクアラルンプールに鉛筆分工場を建設。現地の資材を活用して軍納入品の鉛筆を生産し、陸軍から表彰される。終戦を迎え、抑留生活を余儀なくされるが、1946年に本土へ帰還し、八郎とともに右腕左腕として春之助を支えた。浩平にとっても兄、八郎の突然の死は断腸の思いだった。それから20年もの歳月を経た80年代の初め、戦後復興のころを回想して、「この時期、八郎が存在していなかったら、トンボ鉛筆のありようは変わっていたかもしれない」と述べている。さようなら、とわ会長1964年5月25日、トンボ鉛筆の生みの母、とわ会長が亡くなる。68歳だった。夫、春之助を看取って7年、長男、八郎に先立たれて1年あまりのちのことであった。17歳で春之助に嫁ぎ、三男四女をもうけたとわは、春之助と二人三脚で小川春之助商店を盛り立て、トンボ鉛筆の成長をわが子のように見守ってきた。また、とわは、メディアの力に業界で最も早く目覚めた人で、あまねく知られたトンボ鉛筆の母であった。せいれい同年10月、死の直前まで綴られた『蜻蛉日記』が、朝日書院より発行。そこには、春之助と、鉛筆という小さな文化財とともに歩んだ半世紀が物語られている。当時、女性の叙位叙勲はまれであったが、同年、従六位勲五等瑞宝章を追授された。鉛筆削り器SR1500鉛筆削り器SR130039トンボ鉛筆100年史