トンボ鉛筆100年史 page 35/98
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トンボ鉛筆100年史
鉛筆会館起工式前列中央が春之助(左)社長就任当時の八郎(右)期が終わったことを告げた。前年、1人当たりの実質国民総生産が戦前の水準を超えたという朗報であった。文具筆記具業界においても、復興期から成長期へと大きく変化していく。それぞれに秀でた専門事業分野でブランドを確立した文具メーカーは、1950年代半ばからいっせいに事業の多角化を図る。やがて、品質と開発力に優れる「made in Japan」製品が世界を席巻するようになっていく。トンボ鉛筆においても、新分野へ進出する準備は始まっていた。渡米した際(1950年)、ボールペンを入手した八郎は、すでに「トンボ鉛筆製ボールペン」の構想を固めていたのである。本格的にボールペン、マーキングペンの開発に着手したのは1957年だった。シャープペンシル「HOMOホルダー」/マーキングペンの製品化事業の多角化は、また鉛筆の多角化をも促した。1957年にはシャープペンシル第1号として直径2ミリの丸芯を用いる「HOMOホルダー」を発売する。翌年には八郎の発案から製図用の「平型芯(0.2ミリ厚& 0.4ミリ厚)」「平型芯ホルダー」を日本で初めて開発し、発売した。同じく1958年、組織内組織として、ケミカル部門の多角化を図る目的で株式会社小川工業(現小川化工株式会社)を設立し、同社からマーキングペン第1号「ドライインク」が誕生する。油性インクを使用した速乾性のマーキングペンは、王子工場で完全内製した。トンボ鉛筆は、もはや鉛筆専業メーカーではなかった。「『書く』を提供するメーカー」へと鮮やかに変貌したのである。小川春之助の死去/八郎が社長に就任1957年2月15日、トンボ鉛筆の創立者、小川春之助がその生涯を閉じる。71歳であった。2月18日、青山斎場にて執り行われた葬儀では、芦田均氏(第47代内閣総理大臣)が葬儀委員長を務め、足立正氏(日本商工会議所名誉会頭)や、友人代表の早川徳次氏(早川電機工業/シャープ創業者)ら、各界の著名人から弔辞、花輪が送られた。6000人もの参列者が、鉛筆産業の育成・発展に尽力し、筆記様式の西洋化・国際化に貢献した第一人者であった春之助との別れを惜しんだのだった。春之助の死去に伴い、長く専務として春之助を支えてきた八郎が取締役社長に就任する。同時に、とわが会長となった。名実ともに、八郎が経営者として手腕を発揮する時代が始まる。第1号油性マーキングペン「ドライインク」マーキンググラフ35トンボ鉛筆100年史