トンボ鉛筆100年史 page 29/98

トンボ鉛筆100年史

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トンボ鉛筆100年史

焼け跡で再建始まる墨芯工場の上棟(左)春之助と八郎完成した木工工場前にて(右)トンボ鉛筆の資本金は1946年の100万円から、1948年に300万円、1950年には1000万円と飛躍的に拡大し、その復興ぶりは業界の範とされた。トンボ鉛筆の増資に際して、藤井商店(現レイメイ藤井)の藤井利七社長や伊藤商事(のちのアイティーオー)の伊藤仙十社長をはじめ、多くの流通各社が進んでこれを引き受けてくれたことが、戦後復興の原動力になったことはいうまでもない。でつくることができず、そこで、販売許諾枠を得ていた写真修整鉛筆の国産化が急がれた。1943年に特許を取得した粘土の微粒子加工を実現することで、「8800」の上を行く「8900」が完成したのだった。アマチュア写真家・八郎の着眼──「すらすら」から「光線遮断」へ国産最高峰の高級鉛筆「8900」誕生終戦から3カ月後の1945年11月、1本30銭の高級鉛筆「超微粒子写真修整鉛筆8900」を発売するや、トンボ鉛筆には注文が殺到した。その開発の背景には価格等統制令があった。価格等統制令により、メーカーの価格決定権が失われることに危機感を抱いた春之助と八郎は、統制令施行直前、国産化には至っていなかった写真修整鉛筆の販売許諾枠を、1本30銭の価格で得ていた。戦後、価格等統制令は廃止されたが代わって物価統制令が施行され、統制が解かれることはなかった。このため、国産鉛筆の象徴とされた1本10銭の「製図用鉛筆8800」は価格面「8900」は、鉛筆に新たな境地を拓いた。ダース箱の正面に「写真修整鉛筆」、横に「青写真・製図用」と記され、それまでの「なめらか、すらすら」な書き心地から、鉛筆の使命が大きく変化したことがわかる。背景には光学(写真)技術の進歩があり、機械・建築設計の原図を複写する青写真の急速な普及があった。鉛筆による写真修整は光のムラを取り除き、透明感のある仕上がりを得る目的で施された。青写真の作成には均質で光線遮断に優れ、変色がなく、堅牢な筆記線の鉛筆が求められた。鉛筆が持つ光線遮断性と写真技術・青写真を結びつけたのは、日本に数台しかなかったライカやコンタフレックスを操るアマチュア写真家、八郎であった。「写真修整鉛筆8900」の成功が、トンボ鉛筆の戦後復興の大きな原動力になった。現在の黄色のダース箱の8900(1948年9月~現在)皇太子殿下(今上天皇)のご来訪に合わせてリニューアル発売オリーブグリーン軸の8900(1948年4~8月)29トンボ鉛筆100年史