トンボ鉛筆100年史 page 25/98
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トンボ鉛筆100年史
杉江家と小川家、そして浦山家の深い縁蜻蛉社の登録商標「トンボ印」春之助の出願した商標「トンボ印」鉦三郎と作太郎の出会いは、もうひとつの出会い、再会をもたらしている。奇しくも、鉦三郎の妻は、作太郎が上京した当初に世話になった染物屋、浦山家の次女だった。その縁から、1895年、作太郎もまた浦山家の長女と結婚、その末弟である春之助を養子に迎えた。浦山家の姉妹が、杉江家と小川家に嫁いだことで、作太郎は鉦三郎の義兄となり、春之助にとって、鉦三郎は叔父という深い縁で結ばれることになる。翌1896年、「蜻蛉社」は優良な国産鉛筆であることを表示するために、トンボをマークにした「トンボ印」を商標登録した。国産鉛筆の商標化は、業界初のことだった。1898年、作太郎は「蜻蛉社」から独立し、同じ下谷区の上根岸町に自分の鉛筆工場を設立する。芯の生産も取り込んで、順次、用地を広げ、工場を新設していった。一方の「蜻蛉社」は、1899年に組織変更して、「日本鉛筆株式会社」としたが、1903年、鉦三郎の死とともに個人企業に戻った。杉江家の残された家族は、鉦三郎の遺志を継いで鉛筆づくりを続ける。小川家も鉦三郎の創生の遺志を重んじて、残された者との絆を深めていった。しかし、明治も後期になってなお、鉛筆は約70%が輸入品で占められていた。また、日清戦争(1894~1895)と日露戦争(1904~1905)という二つの戦争によって、日本の対外債務が膨張し、戦後恐慌(1907~1914)が起こる。このようななか、一時は隆盛を誇った作太郎の工場も、大変な消費不振から火の車となっていた。1912年、鉛筆の製造・販売事業は、若き春之助、とわの夫婦に託された。1913年、「小川春之助商店」が開業する。春之助は、鉛筆の製造に汗する父を支えながら、文具商として「堅い人」との評判を得るまでになっていた。かたわらには、とわとともに、蜻蛉社の社主だった杉江鉦三郎の後継者、政明の姿があった。春之助は、まもなくしゃれた銘柄鉛筆をヒットさせる。作太郎は経営からは身を引いたが、意匠に工夫を凝らした鉛筆づくりに情熱を燃やした。1927(昭和2)年、若き日に鉦三郎と汗した「トンボ印」の復活を大いに喜び、渾身の力を込めて鉛筆製造に励む。1949年、春之助ととわの子どもたちによって、戦災から力強く立ち直っていくトンボ鉛筆王子工場を見届けながら、作太郎は世を去った。77歳であった。25トンボ鉛筆100年史