トンボ鉛筆100年史 page 24/98

トンボ鉛筆100年史

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トンボ鉛筆100年史

見していたひとりでもあった。維新によって、鉦三郎も多くの士族と同様、失職した知識層となったが、工業に新天地を求め、河原徳右衛門の鉛筆工場で多くを学ぶ。1884年、「蜻蛉社」を興し、鉛筆製造業者として独立した際、鉦三郎は、“後ずさりしない不退転の虫”である「蜻蛉」に、先祖から受け継いだ士族としての誇りを託したのだった。小川作太郎と文明開化トンボ鉛筆の、もうひとりの創始者である作太郎は石川県七尾の出身で、1872年に生まれた。その年には近代教育制度の原型となる学制が頒布されている。先進国にならった初等教育が始まった年であるとともに、新しい筆記具である鉛筆が普及していくきっかけとなった年でもあったのだ。1889年、「江戸に出なきゃ、人間になれない」と、近代教育を受けた1期生ともいえる作太郎は、17歳にして上京、独立独歩の道を歩みはじめる。「江戸に~」は、当時の流行語だった。文明開化の世になり、四民平等の社会が到来し、すべての人に等しく“出世”の機会が与えられたと、若者たちの夢はふくらんだ。上京してまもないころは、染物屋(浦山家)で働くが、当主が亡くなり、幼いころから指導を受けていた指物師としての道を求めはじめたとき、衝撃の出会いがあった。「鉛筆工場へ行ってみると、何から何まで違う」──作太郎が見たものは、鉛筆の木口切りをする「ガラ」という工作機だった。このときの感動が、作太郎を鉛筆づくりへと向かわせた。1891年のことである。作太郎は、鉛筆の製造機製作の第一人者である佐藤藤次郎のもとで木製工作機の製造を始めた。足踏動力を応用して、木口切り装置、溝彫り装置、塗装装置などをつくっていった。藤次郎と作太郎がつくり出す鉛筆製造装置の評判は国じゅうを走り、同年暮れには仙台随一の毛筆問屋「鈴木玉光軒」から声がかかる。作太郎は仙台へ出向いて鉛筆工場をつくることになったが、結局、「玉光鉛筆」は幻に終わった。背景には、筆墨硯紙業界と唐物屋で扱われた硬筆(鉛筆)の対立があった。四宝文具と西洋文具がひとつの店舗で扱われるようになるまでには長い時間を要したのである。1893年、東京に戻った作太郎は、本所で鉛筆づくりを始める。その噂が、片腕を求めていた杉江鉦三郎の耳に入り、ふたりは意気投合。作太郎は「蜻蛉社」で鉛筆づくりに励むのだった。作太郎の通った七尾町尋常小学校小川作太郎(明治末期ごろ)24