トンボ鉛筆100年史 page 19/98
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トンボ鉛筆100年史
久邇宮家4殿下工場見学記念の葉書25周年式典(TOSHIMA FACTORY正門)伝においても数々のヒットを放っていった。1935年には、春之助の妻、とわ(1895~1964)の人脈により、「陸の竜宮」と称された日劇に、珊瑚とエンゼルフィッシュをあしらった緞帳を寄付する。こうした宣伝活動を通じて、トンボ鉛筆の知名度は大いに高められた。だが、日中戦争(1937)を契機に輸入資材の不足と高騰にあう。さらに価格等統制令によって高級製図用鉛筆の上限小売価格が20銭と規定される。トンボ鉛筆は20銭の価格帯で「TOMBOW No.8000」を企画、ロングセラーとなった。自社製の高級製図用芯の完成から生まれた「TOMBOW No.8800」1927年に始まった、国内最高の芯づくりは、約10年にも及ぶ試行錯誤を経て、1936年、「TOMBOW No.8800」の発売をもって結実した。ダース箱内のしおりには、こう記載している──「トンボ製図用鉛筆は弊社研究部の生命とも云うべき優良品で、弊社の最も誇りとするものであります」。春之助の大胆な投資によって完成した自社製の高級製図用芯を用いた「No.8800」は、今日、わが国の鉛筆の代名詞となっている「8900(ハチ・キュー)」の前身である。春之助は、最高峰エベレストの標高が一般に8800メートルといわれていたことから、「No.8800」に鉛筆の最高峰の意味を託したと思われる。宮様のご見学1936年10月、久邇宮家の4殿下をTOSHIMA FACTORYにお迎えする。久邇宮家は昭和天皇の皇后の香淳皇后が出られた家柄。当主であった朝融王殿下のお子さまのひとりが「鉛筆をつくっているところを見たい」とおっしゃったのがきっかけだった。宮内省(現宮内庁)が視察先を調査している際、銀座・伊東屋の社主、伊藤勝太郎氏の口添えで、当社の工場を見学されることが決まった。久邇宮妃殿下の知子女王殿下、邦昭王殿下、正子女王殿下、朝子女王殿下がご来訪された。鉛筆業界が宮家をお迎えするのは初めてのこと。また、工場がある旧王子区に宮家がお入りになったのも初めてだった。宮家の工場見学は、つつがなく執り行われた。TOMBOW No.8000TOMBOW No.8800TOMBOW No.8800広告19トンボ鉛筆100年史