トンボ鉛筆100年史 page 15/98
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トンボ鉛筆100年史
小川作太郎TOSHIMA FACTORY正門前にて(昭和初期)大震災により全焼した本店の復興震災から10日後の9月11日、小川春之助商店は商いを再開する。第一次大戦終結後の恐慌によって過剰気味になっていた在庫は飛ぶような売れ行きで、親族の鉛筆製造業者が力を合わせ、製造も再開した。柳橋の小川春之助商店本店が復興したのは、1923年の暮れであった。1棟3軒をひとつにしたが、震災直後ということもあり、簡易な建物だった。本建築に建て替えたのは、4年後の1927(昭和2)年のことである。1954年に人形町に移転するまで、柳橋のこの店が、小川春之助商店の本拠地となった。良質な鉛筆づくりをめざして、TOSHIMA FACTORY建設へ始動震災前から、春之助は鉛筆に求められているものが、目新しさから「書く」品質に移行していることを感じ取っていた。常時均等に売れる良質な鉛筆づくりの構想をあたためてきた春之助は、鉛筆の一貫生産体制を整えるため、新たな工場建設を決意する。きっかけはいくつか重なった。福井商店の福井正太郎氏が震災直後に大阪からお見舞いに来てくれて、「これからは質の向上を」と助言してくれたこと。百貨店大手の松坂屋から「大きな取引契約を結びたいので、直接、製造工場を見たい」という申し出があったこと。また、景気の悪化で諸々の価格が下落していたことも新規投資には有利に働いた。鉛筆は芯の窯業から木工・塗装と多様な専門工程を総合化した特殊な商品である。そのため伝統的に工程別に工場が散在する形で発展した。しかし良質な鉛筆づくりのためには、このような形では限界があることを痛感していた春之助は、お得意先の申し出も手伝って一貫生産工場建設へと動き出す。1925年、作太郎を中心に工場用地の調査に入り、東京府北豊島郡王子町中豊島(現東京都北区豊島6丁目)に約2500平方メートル(約750坪)の土地を借りることにした。TOSHIMAFACTORY建設の第一歩だった。建て替え後の本店(柳橋)浅草(柳橋)本店写真入り広告(1929年)15トンボ鉛筆100年史