トンボ鉛筆100年史 page 11/98

トンボ鉛筆100年史

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トンボ鉛筆100年史

春之助(中央)、前列左より妻とわ、長男八郎、長女綾子、作太郎夫人寿々(1922年撮影)積みによる建築は中世ヨーロッパでは「王者の技術」とされ、MASONは高い地位にあった。春之助は、近代日本を建設する筆記具として「MASON」を企画したのだった。また、1915年には爆発的な人気を博した「ステッキ鉛筆/H.O.Stick」を送り出している。春之助の進取の気風が生み出した銘柄鉛筆は、顧客へ喜びを届ける商品として、広く親しまれていくことになる。その点で、春之助は、いまでいう「マーケティング」の名手であった。春之助はそれら銘柄鉛筆に発売元の証として「H.O.Pencil」というシンボルマークを必ず刻印した。Harunosuke OgawaPencilの略である。こうして種々のヒットは、春之助の個性として束ねられ、ゆくゆくトンボ鉛筆の基礎を築いていく。映画など流行を取り入れた鉛筆がブームに「ステッキ鉛筆」は、チャップリンの短編喜劇映画の流行ともあいまって、一大ブームを巻き起こしたが、外国映画にヒントを得て命名された銘柄鉛筆として、「快漢ロロー」と「SUBMARINE(潜航艇)」がある。1915年に封切られた劇場映画「ザ・サブマリーン(原題TheSubmarine)」にちなんで発売したのが鉛筆「SUBMARINE」である。このシリーズはロングセラーとなり、また、軍関係の納品鉛筆としても数多く受注した。1916年には、劇場映画「快漢ロロー(原題Liberty)」のヒットから、鉛筆「快漢ロロー」が誕生。尖りゴムつきの細軸鉛筆は、映画人気との相乗効果で好調な売れ行きだった。時代のトレンドを商品の意匠に取り入れた、いわゆる“銘柄鉛筆”は、この時点ですでに完成していたといってよいだろう。こうして木筆と呼ばれていた鉛筆は、国民的な筆記具として定着していくのだった。第一次世界大戦と鉛筆業界第一次世界大戦(1914~1918)を契機に、日本はにわかに鉛筆輸出国となった。主要生産国だったドイツの参戦により輸出が途絶え、海外各国から日本への注文が殺到したためである。鉛筆工場は1914年当初の25カ所から、大戦をはさんで約180カ所にもなったと伝えられる。空前の鉛筆ブームだった。大正初期の鉛筆製造業は、三つに分類できる。店舗で売られた個人向けの鉛筆をつくる事業者、官公庁などで使用される用度品としての納品鉛筆をつくる事業者、主に国外に向けられた輸出鉛筆をつくる事業者だ。輸出景気にわくなかで、春之助は、鉛筆が舶来の新しい筆記具として普及途上だった国内需要を重視し、文房具店で売られる個人向け鉛筆製造に事業を絞り込んでいく。お客様本位でモノづくりする春之助の才覚が、のちに訪れる厳しい戦後恐慌を乗り切る大きな力となった。SUBMARINE 2224(上)SUBMARINE(下)SUBMARINE 2224潜航艇マークが入っている11トンボ鉛筆100年史